自己紹介

自分の写真
名古屋市中村区, 愛知県, Japan
名古屋市中村区在住。情報・通信関連企業に現在勤める。初等・中等教育機関様、高等教育機関様に対して営業させていただいております。将来を担う全世界の学生にIT技術を用いた環境を提供したいと思います。世界における子供たちの機会均等を実現したいと考えています。 合わせて名古屋市中村区情報を発信していきたいと思います。

世界の自然-Real Nature

世界の自然-Real Nature
自然を眺める時間も必要ですねっ^^v

2009年11月12日木曜日

アングロサクソンと日本の成功の法則?

右系の某会合に参加。

アングロサクソン文化と日本文化の成功の法則は異なる。

アングロサクソン成功 = 計画立案力 × 実行力

日本成功 = 計画立案力 × 実行力 + 礼儀 + 根回し力

礼儀と根回し力が異なるようです。

同感です。

スクラップアンドビルドを基本とする文化と、長い歴史をもつ日本文化。

礼を尽くし義を貫くこと。そして、夫々の立場を慮り、相手の立場を考える日本文化の違いがあると思います。

アメリカは、競争、打ち負かす、スクラップアンドビルドの文化。日本は、相手を思いやる、強調、積み上げの文化だと理解します。

占いによると、私は、11月は、目上の方々の話をよく聞く必要があるという事です。

2009年11月8日日曜日

カトリックにおける人格形成プロセス-マルコによる福音-

 今日は日曜日。嫁と教会へ行く日です。朝から教会に行ってきました。嫁を理解するため、ヨーロッパ含むカトリック教の文化を勉強するため、1週間の自分の反省をするため、教会にここ1ヶ月一緒にいっています。カトリックに関して、興味があることは、教会システムです。カトリック信者は、毎週、地域の教会に通っています。

キリスト教の前提は、人は、罪を犯すという性悪説から入っています。面白いと思うのは、人間は罪を犯す存在でありながらも、教会に毎週、懺悔し許しを請うことです。人は、現実社会を生きていく上で、過ちを犯す。しかし、カトリックでは、教会に毎週通い、神へ懺悔し、神に許しをを請います。つまり、カトリックとは、帰納法的な展開をし、仮説・検証プロセスを繰り返す事により人間形成を行うシステムだと理解しています。これがキリスト教が現在でも行き続ける最大の理由かと考えています。

仮説とは、人間とはこういった生き方であるべき(聖書と福音)というのががあります。検証とは、現実の社会の中で生活し、間違いを起こします。そして、間違いを毎週、日曜日に通う教会で、懺悔し、心新たに1週間をすごします。毎週、このサイクルを通じる事で、人間形成を行っています。

カトリック的生き方の人間形成プロセスを日本人は、学ぶべき事があるのではないかと考えます。日本人に、宗教は?と質問した場合、多くは、仏教を挙げる場合が多いかと思いますが、本当に信仰しているかといえばそうではないと理解しています。例えば、親が浄土宗だからとか、そのような理由で、仏教を信仰している人は殆どではないのではないでしょうか。

世界を見て、日本ほど、無信仰な、そして人工的に作り上げられた国家はない(社会主義国を除く)のではないかと思います。経済面では、資本主義経済化が発達してきています。一方、歴史・宗教・文化面では、戦後スクラップされ、そして、歴史・宗教・文化がスクラップされ、資本主義経済がビルドされ、人工的に拝金主義化させられた気がしますが。。
(*ご参考:スクラップ・ビルドは、経営用語です。人工的に全てを変えてしまうつもりの・・・)

全て否定するわけではありません。生活する上で必要な欲求があり、「拝金主義」は、完全否定ではないです。しかし、「金」=「要望・欲求」を満たすものと考えた場合、金を稼げば稼ぐほど、人間の欲が激しくなり、そして、競争が激化します。

資本主義経済が高度化すればするほど、貧欲に「欲求」を満たす世界が求められます。ワールドワイドが伴った場合を想定すれば・・・倫理観が崩壊した中で、欲求が全て満たされる世界を想像するとどうなるでしょうか。私は少し怖い社会ではないかと危惧しています。

本日、教会での福音は、「金」及び、「生き方」に関してのお説教で、マルコの福音書からです。キリスト教の伝道師パウロが、福音書の中で自身の存在として描いている「マルコ」の福音書です。(福音書とは、キリストにより啓示された神の救いの教えを意味します。)内容は、お賽銭に関するテーマです。内容に関しては、以下の通り。



左記内容を要約すると、金持が予算の中からある程度の賽銭を入れた。貧乏な人が金額は少ないが全財産を賽銭に入れた。そして、その状況をイエスが見ていて、貧乏な人が、最も多くの賽銭を入れたという事を書いています。

この福音の意味は、全ての金銭・財産を全て、神に投げ捨てた貧乏は、人生の全てを神に全てを委ねるという事を意味しています。

「神に全てを委ねる」という表現は、ソクラテス流にいえば「より善く生きる」、日本流にいえば、「武士道」を体言化するように生きようとするでしょうか。。

要は、自分自身の欲求を満たすための「金」以外に、心安らかになれる「愛」があるのではないかと。

現実の資本主義経済下、「金」は必要です。生活するためにもちろん必要になります。しかし、「金」ばかり求めていると、本当に大切な物が見えなくなるという福音だと認識します。







私自身、いろいろと問題があり、この福音に記載される貧しいやもめの状態になりましたが、今、お金が無くとも大切な物が見えてきた気がしています。

カトリックは、日本文化にそぐわない点があるかと理解します。しかし、カトリックの「教会システム」と同様の人間教育・倫理観に関して、仮設・検証プロセスを含む教育を組み入れる必要があるのではないかと感じます。システムとして、「場」の提供、「機会」の提供、「内容」の提供が必要でありかと考えています。日本では、この実現の主体が、良心のある地域に密着した、非政府組織(NGO)ヒントになるのかなと考えます。